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今から約750年前の1244年、鎌倉幕府の波多野義重公の願いにより道元禅師によって開創された曹洞宗の第一道場です。道元禅師が45歳の時の事でした。最初は大佛寺と言いましたが、未来にわたっての隆盛を祈念して「永平寺」と改められました。
永平寺は真実の仏弟子を育てる道場で、現在もなお雲水が道元禅師により定められた厳しい作法に従って禅の修行を営む、現在も生きた道場です。昭和30年代に観光地として注目されるようになりましたが、樹齢700年は超える老杉に囲まれた10万坪の境内の厳かな雰囲気、修行僧たちの姿に誰もが心を打たれます。
永平寺の開祖道元禅師は、鎌倉時代の正治2年(1200)に京都に生まれました。8歳の時に母が他界し、比叡山横川に出家いたしました。その後京都、建仁寺に入られ24歳の時に中国に渡りました。
天童山の如浄禅師について修行し、身心脱落してその法を嗣ぎ、28歳の時に帰朝しました。
その後、正伝の仏法を広めようと京都の宇治に興聖寺を設立します。その準備の間に記されたのが『典座教訓』で、「食」を重視した教えだったのです。
その後、住みなれた京を離れ越前国志比の庄吉峰寺に移り、大佛寺を設立、ここを永平寺と改称しました。
その後鎌倉幕府の北条時頼一族の北条重時や波多野義重公の願いにより、鎌倉に向かいましたが半年で永平寺に戻っています。
建長4年(1252)の秋に病にかかり、療養のために京都に向かいましたが翌5年の夏に入滅。54歳でした。遺骸は荼毘にふされ、遺骨は永平寺の承陽庵に納められています。
中国に渡った道元は、港で一人の老僧に出会います。仏法の話がしたい道元に、老僧は食事の準備があるからと断ります。そんなことは若い僧にさせればいいではないかと道元が言うと、老僧は「あなたは修業がなんであるか、わかっていない」と言い残して帰っていくのです。
またある時、老僧が汗だくになって海藻を干しているのを見かねた道元が「若い人か、涼しい日になさったらよろしいのでは」と言うと、「他の者にさせたのでは自分の修行にならず、今しないでいつするというのだ」と答えたと言います。料理を含めて日常の行いがすでに仏道の実践であると、道元禅師は知ったのです。
このエピソードが書かれているのが『典座教訓』で、道元禅師は、「食」を重要なものとして位置付けていることがうかがえます。永平寺では料理の責任者である典座は重役の一人ですし、料理も大切な修業の場になっています。
『典座教訓』には○食材に敬意を持つ、○整理整頓と道具を大切にする、○食べる人の身になって作る、ことが大切だと書かれています。作る喜び、もてなす喜び、大きな心で料理を作ること、そして手間と工夫を惜しまないことが教えられているのです。
作る者もやる気を出していくことが修行であり、食べることもまた修業に通じると教えられています。
ですから典座も自ら手をかけて調理をしています。7時の朝食のために朝、3時から作業が始まるのです。
こうした永平寺の精進料理は、室町時代から江戸時代にかけての本膳料理の源流となり、懐石料理のもととなっていきます。
永平寺の食は日本の「食」の源でもあるのです。